2007-08-23

糸魚川追悼ラン: ちひろ美術館

道程の 2 日目、安曇野ちひろ美術館に立ち寄った。

安曇野は、両親の友人が別荘を持っていて、両親は夏になるとよく泊りがけで遊びに行っていた。母親はいわさきちひろが好きでこの美術館を絶賛していたけど、オレはその作風がどこか物悲しくて、肌寒い感じがして好きじゃなかった。

でもせっかく近くまで来たんだし、母の好きなものに触れてみるのもいいだろうと、立ち寄ってみた。 自転車用の駐輪場はあったけど、スペースが確保されているだけでスタンドはなかった。

まず驚かされるのが、併設されているちひろ公園の広大さ。公園には森があって、川が流れていて、巨大な池まである。その様子をチンケなコンパクトカメラに収めるのは不可能。ただただ圧倒される。

広大な庭園。奥の建物が美術館 ちひろ美術館の庭には小川が流れている 池もある。たわむれるがきんちょ

ざっくりと庭園を堪能したあとに、館内へ足を踏み入れる。木の壁や大きくとった窓、高い天井でゆったりとした雰囲気。展示スペースは建物の敷地面積からしたらずいぶん狭いけれども、それでも充分であった。

展示は絵本になった原画とともに、自由に手にとって観られる絵本も置いてあった。原画と印刷されたものを見くらべることができる。展示してあった手記に、 「絵本という作品には、わたし (ちひろ) の技術だけではなく、印刷会社の技術もなくてはならなかった。原画展なんて開いたら、来場者はがっかりしてしまうかもしれない」のようなことが書かれてい た。印刷に携わるものとして、これほどその冥利に尽きる言葉はない。先日観に行った、小松崎茂展でも感じた、商業画家の作品と、原画のあり方について再確 認した。あくまでも完成品は印刷されたものなのであると。原画は 1 点ものであるがゆえにその価値が取りざたされるけれども、あくまでも中間物なのだ。版画で云えば「版」にあたる。いわゆる漫画などは、原画はスキャンや製 版されるときに見えなくなってしまうところは、それを見越してスクリーントーンを貼ったり、墨ベタやホワイトを入れて制作される。

ほかの美術展にくらべて、1 点 1 点の作品の解説がすごく丁寧にされていたように思う。それは言葉の選び方にも及んでいて、なんとなく「ああ、この解説を書いたひとは、ほんとうにちひろが 好きなんだなあ」と感じた。好きな人が書いている解説を読むと、好きになってくるからフシギだ。解説は作品にとどまらず、ちひろの水彩の技法、出生から 2 度の結婚、満州からの引き上げ、愛する息子と離れ離れの生活、生活様式に現われるちひろの人柄にまで及んだ。そしてその魅力にどんどんと惹きつけられて いった。

なんとなく絵が観づらいなと思ったら、全体的に絵の掛けてある高さが低い。そう、こどもでも観られるように低めに設定してあるのだ。気がつくと、美術館全体のつくりがこども向け、もしくは子連れ向けにつくられている。こども部屋、絵本ばかり置いてあるミュージアムライブラリ…。ちひろの作品のテーマになっている「こども」と、こどもへの愛情は、美術館のテーマにもなっていた。

夏休みということで、子連れ客が多かった。真っ黒に日焼けしたがきんちょどもが、大声を張りあげながら美術館のなかを駆けずりまわる。そう、まるでちひろの作品からそのまま飛び出してきたように。そのさまは、美術館全体がちひろの作品になっていたようでもあった。

もうすっかりフアンになってしまった。

併催されていたのは、「世界の絵本展」。思いがけず「はらぺこあおむし」や、「かいじゅうたちのいるところ」、こどものころ大好きだった長新太の原画に出 会えた。上で絵本の原画についてゴチャゴチャと書いたけど、やっぱり原画の迫力を目の当たりにすると、純粋に感動する。あのあおむしの頭はこんなに鮮やか な赤だったのね。

一通り観終わって、自転車にまたがり裏手に回ると、そこに広がる花畑でまた感動した。

裏庭にはステキなお花畑

雲が出てきてしまって、鮮やかな色で撮ることができなかったのが心残り。

時間があれば庭園も含めてもっとじっくり観てまわりたかったし、カフェも堪能したかったけれども、日没まで時間が迫っていたのでゆっくりすることができなかった。松本で時間を食いすぎた。それでも時間の限り観れるところは観てきた。

ちひろ美術館は練馬区にもあるとのこと。この旅が終わったら行くことにする。

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